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第4幕弐話 永遠に生きる想い[下]

「いらっしゃいませ」
狂が小姓二人に案内されて主郭に着いた途端、つき当たりの部屋の障子が開かれた。
障子を開けたのは、この楼閣の主人。
色素の抜かれた髪を後ろで縛り、前髪を後ろへ流している所を見ると、仕事をしていたらしい。
異国風の紺の縁取りのついた黒地の服は、仕事着なのだろう。
「こちらへどうぞ」
にっこりと笑いかけてくる楼主に、狂は眉を潜めた。
笑顔が明らかに作り笑いだ。
しかし、狂は言葉を発する事は無く、促がされるままに部屋へと入る。
用事を済ませたら、直にこの部屋からは出て行くつもりだ。
「二人共、もう良いから戻って」
狂を部屋の中へ入れると同時に、葎は狂の後ろにいた二人に笑顔を向けた。
ここから先は、『商売の話』だ。
そう、暗に言われているような圧迫感。
その迫力に押されるように、二人に言える言葉は一つしかなかった。
「…はい」
二人は気圧される様にその場を立ち去った。

「ご用件は?」
「分かってんだろ」
「幸村、ですか」
「ああ」
静かに進められていく会話は淡々としたもので、そこに感情はあるのかと思うほどお互い冷ややかだ。
特に狂に至っては、さっさとしろと気配で表わしている。
葎はと云えば、『商売』の話となるといつも冷やかだ。
「身請けのお話…でしたか。幸村の返事は聞いていらっしゃいますか?」
「俺の所へ来ると」
にやりと笑い、狂は勝ち誇った様な笑いを浮かべる。
葎の内の『何か』を察しているのだろうか。
「はい、確かに。私の方にも、幸村からはそう聞いております。それでは、身請け、という事で宜しいでしょうか」
「ああ」
短い承諾の後、楼主は二枚の紙を狂へと渡す。
承諾書と、契約書。
二枚ともその名の通り、承諾書は身請けをするにあたっての狂、幸村、そして楼主の承諾印、契約書は、この楼閣の花魁を外へ出すにあたっての狂と楼閣との契約書だ。
そして契約書には花魁を売買するにあたっての値段。
花魁は身分が上る毎に値段も上る。
幸村は花魁の中でも地位の高い御職まで地位を上げていた。
値段もそれなりに張る。
「こちらにお名前と現住所をお書き下さい」
いくつかの箇所を指してそう云うと、筆を狂に渡す。
面倒臭そうにしながらもそれを受取って書いていく狂。
着々と進んでいく身請けの契約。
この楼閣は他の楼閣とは違い、面倒な手続きやそれに伴う諸々を全て除いてしまう。
面倒な手続きは、身請けする相手にとっても、楼主にとっても面倒臭い。
それならばと、現楼主が一気に省いてしまった。その代わり…
「あ、それから…」
思い出したような楼主の声に、狂は書きかけの手を止めた。
「当楼閣では諸々の契約が無い代わりに、いくつかの規約をお約束頂きます。宜しいですか?」
宜しいですか、と聞かれた所で、その内容が分からないので一丸に良いとは言えない。
狂は眉を潜め、訝しげに楼主を見た。
食えない笑顔を向けてくる楼主は、一枚の紙を出す。
「こちらに規約があります。お時間がある時で結構ですので一通り目を通して頂きたい。…これで一通りの作業は終わりです。」
物の半刻も経っていないのでは無いかと思われる短い契約と手続きは終わった。
別段面倒臭い作業では無かったが、規約と書かれた紙は何処か胡散臭い。
本来ならばしなければならない面倒な手続きを、一気に省いた規約だ。
何かしらあるに違いない。
「後はお値段の話しとなりますが、幸村の場合は…」
「値金なら――」
何処からか取り出した一冊の帳簿を手にした楼主がそれを開き、言葉を続け様とした瞬間、狂はそれを遮るかの様に口を挟む。
そして懐を探り、取り出したのは風呂敷に包まれた金の束。
「これで十分だろう」
楼主の目の前に置かれたのは、十分過ぎる金。
いくら御職である幸村でも、ここまでの金は必要ない。
ざっと見ただけでも、幸村に見合う値段の数倍はあるだろう。
「こんなには必要ではありません」
「取っておけ。それで幸村の次の代でも創るんだな。一週間後に幸村を迎えに来る」
短時間で済んでしまった契約に、狂は何事も無かったかの様に、しかし何かを企んだ様な含み笑いを浮かべながらさっさと立ち上がる。
渡された紙を懐に無造作に突っ込み、幸村のいる部屋へと戻ろうと先刻入って来た入口へと足を向けたとき、ふいに後ろから声がかけられた。
先刻までとは少しニュアンスの違う楼主の声。
「幸村を…」
何かを抑えているかの様な口調と、その苦笑した様な表情。
それは先刻までのとは打って変わって、楼主とはしてでは無く、『葎』として狂に向けられた言葉だった。
「幸村を、宜しくお願いします」
何を言いたいのか、何を言っているのか、きっと狂は分かっているのだろう。
不敵な笑みを浮かべた狂は、それ以上は振り返らずに部屋を出た。

「ったく…行動力の早い客だな…。ああ、そう云えば神楽、何か分かったか?」
溜息と共にそう愚痴の様に吐き出しながら、葎は何かを思い出したように奥の部屋へ声をかける。
すると、いつからそこにいたのか、奥の部屋から神楽が出てきた。
「はい。少ない情報だったので困難かと思ったのですが、案外簡単に出てきました」
「で、何処に住んでるんだ?」
葎が筆を取りそれを動かしながら問うと、神楽は紙をペラ、と捲って確認する。
葎に云われて部下に調べさせた、やたらと事細かに書かれた調査報告書。
「そんなに遠くないですね。寵門を出て番近い着物問屋、分かりますか?」
「ああ」
「あそこの養子に入ったようです」
それを聞くと、葎の手はぴた、と書く筆を止めた。
「そうか」
「はい。楼主、こんなものを調べてどうするつもりですか?」
「ちょっとな。神楽、悪いが少し出てくる。これを処理しといてくれ」
「は!?楼主っ!ちょっ…こんな時間から何処に行くんですかーっ!」


「あ、狂さん、お帰りなさい。何処行ってたの?」
目が覚めた幸村は、狂がいなくなっているのに気付き、まだ他の荷物があるのを確認して再び着物を綺麗に着ていた。
狂が戻って来るまで暇を持て余していた様に狂に笑顔を向ける。
膳には軽い食事と酒。幸村の傍らには小姓がいるが、どうやらその小姓2人は狂が何処へ行ってたのか幸村には伝えてはいなかったらしい。
狂は幸村の問いには答えず、横髪を後ろへ掻き揚げた。
「まぁ良いや。ね、狂さん、お酒飲むよね?」
「幸村」
「ん?」
膳から膳へと酒を移動させて用意する幸村に、狂は近付き、幸村の横に腰を落とす。
長い髪は後ろへと流され、結っていたにも関わらずクセのついていない髪を、狂は一束指先で弄んで掴み、そっと口付ける。
幸村はその髪を触られるくすぐったさに狂を振り返った。
「一週間後迎えに来る。それまでに全部用意しておけ」
「…え?」
狂のその行動に頬を赤く染めながら幸村は問い返すが、狂はそれだけを言うと他には何も言わずに部屋から出て行く。
「ちょ、狂さんっ!」
狂によって後手で閉められた障子を勢いよく開けて幸村が狂の姿を探せば、狂が廊下を歩いていく後姿が見える。
段々と、狂の背中は遠くなっていく。
どうやらもう帰るつもりらしいが、そんな事よりも幸村は先刻の狂の言葉の意味が分からない。
幸村は走って狂に追いつくと、狂の着物を掴んだ。
「どういう意味…?」
「そのまんまだろうが。契約は終った。お前は俺の所へ来るんだ」
「え…?」
「何回も言わせるな」
「本当に…?」
「次に会うのは一週間後だ」
狂は不敵に笑い、力の抜けている幸村の手を逃れてそのまま楼閣を後にした。


『何で俺は…』
『どうすれば良い…』
『どうすれば良かった…』
未だに自己嫌悪が抜けないまま、ふらふらとサスケは川沿いを歩いていた。
どうする事も出来ないもどかしさは、色々な衝動に駆り立ててくる。
しかし、ふと、少し先から歩いてくる男に目が留まった。
何処かで見た事のある男だ。
「久し振り、サスケ君」
「…テメェ…。何の用だ」
目の前にやって来たのは、桜楼閣の楼主である葎だった。
二度と見たくは無いと思っていたこの男の顔を、こんなにも早くまた見てしまった。
サスケは、葎から距離を置いて睨む。
「少し耳に入れておきたい事があってな」
「てめぇの話なんて聞きたくないんだよ」
「そう?残念だなぁ。でも聞いておいた方が良いんじゃないか?」
葎が苦笑した様に笑う。
その顔に、サスケは不快そうに眉に皺を寄せた。
「何だよ」
「幸村の身受けが決まった。一週間後だ」
「なっ…!?貴様っ…!」
サスケは反発された様に葎の胸倉を掴んだ。
かっと頭に血が上って、何も考えられなくなる。
この間会った時は、そんな様子は全く無かった。
一体いつ決まったのか。
「…っと、待て待て。身請けは俺のせいじゃない。客からの申し入れと、幸村自身の決定だ」
「…クソッ!」
「何処へ行くんだ?」
ばっと掴んだ胸倉を力任せに投げ、何処かへ駆け出そうとしたサスケを、葎は冷ややかな声で止めた。
しかし、何処か楽しそうにも聞こえるその声音。
「幸村の所に決まってんだろっ!!」
「行ってどうする?この間、拒否されたんだろう?」
葎のその言葉に、サスケの勢いは止まった。
分かっているつもりでも、何処かで期待する心が残っていたのだろうか。
他人に言われて、その現実は更に重くサスケにのしかかる。
「それに…行ってもお前の事、幸村は分かんねぇぞ」
「……どう云う…意味だよ…」
葎の声が低くなったと同時に聞こえた、意味の分からないコトバ。
『分からない』…?
一体どういう意味なのだろうか。
この男が現れてから、理解出来ない事が増えた。
イライラして、息が詰まる。
自分では出せない答え-オモイ-なんて、もうウンザリだ。
「そのまんまだ。幸村から、お前の記憶は消した。もうお前なんて見ても分かんねぇぞ。」
「幸村に何しやがったっ!!」
再び、勢いのままにサスケはがっと葎の胸倉を掴む。
先刻よりも迫力が増したそのサスケの勢いに、それでも葎はサスケを見据える。
「お前は知らねぇだろうけどな、お前の存在はあいつにとっては『重い』んだよ。お前がいなくなった後、あいつどうなったと思う」
冷ややかに紡がれる葎の言葉は、やっぱりサスケにとっては意味が分からない。
随分と会っていなくて、やっと会えたあの時。
一度目は大した会話も出来ていなくて、二度目は完全に拒否された。
そんな中で、一体自分は何か幸村に重くなる様な事をしたのだろうか。
どうなったと思うと云われても、分かるわけがない。
葎の目が冷ややかにサスケを見ている。
その目が、何故か怖い。
サスケが何も言えずにいると、葎はイラついた様にサスケの手を跳ね除けた。
そして怒りを露わにした様に、低い声が一層低く、そして嫌悪する様な目に変わる。
「お前があいつに会いに何か来たせいで精神がおかしくなっちまったんだぞ!分かるか!?お前がどんだけあいつにとって重かったのか!!あいつはお前の為に今まで辛い事でもやってきたのにお前は…っ!」
『精神ガオカシクナッタ』…?
「何…だよ、それ…」
葎の叫ぶ様なその言葉は、最後まで発せられる事は無かった。
サスケには理解し難いその言葉。
自分を『真田』から出したのは幸村だ。思う所があっての決断だったのだろう。
でも、そんな風に精神が崩壊する程、自分の存在が幸村にとって大きかったとは思えないし、重かったとも思えない。
だから、2度会っただけで、どうにかなったとは、到底思えない。
ならば、どう云う意味なのか。
「…悪い。感情的になり過ぎた」
「一体どういう…」
サスケは驚きを隠せないまま、葎に問いかける。
すると、葎の嫌悪する様な目が、ふと何かを思い出す様な物に変わった。
「幸村にとってお前はいつまでも『好きな相手』だったんだろ。『好きな人の側にいるのが辛い』んだと」
「意味…わかんねぇ」
「『求められるのにそれを返すことが出来ない。自分とは年が離れ過ぎてるし、汚したくない』。これで、意味分かるか?」
「分かるわけねぇだろ…」
口から出てくる言葉に感情は無い。
しかし、本当は何となく分かってしまった。
結局、すれ違っていただけだ。
幸村は自分を、自分のせいで汚したくは無かった。それだけの事。
幸村の、考え過ぎた結果だ。
そして自分の、間違った感情の抑制。
バカな意地とプライドが邪魔をして、幸村に迷惑をかけたくないと思って何も言えなかった。
しかし、『真田』を出される前に、何も抑える事をせずに、全ての感情を、思いを、幸村に言ってしまえば良かったのだ。
例え幸村が考え過ぎていても、自分があの時全てを言ってしまえていれば、きっと今、こんな事になってはいない。 何故、互いに気付かなかったのだろうか。
知らず知らずの内に、相手を思い過ぎる感情がいつしかすれ違って、本来ぶつかるべき所を通り過ぎてしまったのだ。
サスケは、涙が溢れるのを止めることは出来なかった。
何でもっと早くに気付かなかったのだろう。
サスケはその場に立ち竦んだ。
流れる涙が頬を伝って着物に染みを作って行く。
後悔だけが、後を曳いている。
どうして、と。
「悪かったな、勝手な事して。でも、あいつの為だったんだよ」
そう言う葎の声はサスケに届いているのか分からない。
只、サスケは何も言えず、涙を抑える事も出来ずにその場に佇んでいた。
暫しの沈黙。
嗚咽を漏らす事も出来ず、苦しくて、辛くて、痛い。
こんなにも好きなのに、どうしてすれ違ってしまったのだろう。
後悔する事だらけで、でも、もう引き返す事など出来ないのだと理解するまで、かなりの時間を要した。
水の流れるせせらぎの優しい音が続き、しかしそんな優しい音にかき消されそうな位小さな声で、ふいにサスケはポツリと何かを呟いた。
「・・・あいつにしんどい思いさせてたんだな…」
涙を流しながら、葎の取った行動は、きっと間違いではなかったのだろうと思う。
こうなってしまった以上、もうどう仕様もないのだ。
ならばいっそ、記憶を消してしまって、これ以上辛い思いをさせたくない。
「悪いがもう消した記憶は俺にはどうにも出来ない。ケド、せめて顔だけでも、見に行くか…?」
「いや。…もうあいつには会わない。その方が良いんだろ…?」
サスケは一気に力が抜け、川原に座り込んだ。
幸村の記憶を戻す事の希望さえも消えた今、もう本当にどう仕様も無い。
『どう仕様も無い』で簡単に整理がついてしまう程簡単な思いでもない。
でも、幸村に辛い思いはさせたくない。
複雑な心境の後、サスケが出した結論は潔かった。
思う故の結論。
「…ああ。そうだな。」
葎の声のトーンが、段々と下がっていく。
何も生み出す事が出来なかった二人に、一体何を言って良いのか分からない。
ただ、幸村はもう一週間後には自分の元からもいなくなる。
もうすぐ、幸村は希望を抱きながら、新しい生活を始める。
「…なぁ、そんなに好きだったんなら、何で幸村の側を離れたんだ?」
「…俺の変な意地だったんだよな…。カッコ悪い所なんて見せたくないってガキくさいバカみたいな意地。それに…幸村の言う事に逆らえるわけねぇだろ。孤児だった俺を拾って育ててくれたんだ。好きでも、幸村には逆らえるわけ…」
「…辛かったんだな」
「五月蝿い」
サスケは項垂れ、涙を流して、葎が隣に座る事さえ嫌がろうとはしなかった。
「泣きたい時には思いっきり泣け。何ならお兄さんが胸を貸してやろう」
おどけた様に葎が言えば、サスケはバカにした様に鼻先で笑う。
今声を出せば、もっと鼻声になってしまうだろう。でも、それでも、何かを言いたかった。
弱音じゃない。只、『言葉』を言いたかっただけ。
「ウゼェよ、おっさん」
「おっさ…まぁ、君から云えばもう俺はおっさんか・・」
サスケから出た言葉は、何処か子供染みた声音を含んだものだった。
それでも、先刻までとは違う声音に、葎は安心した。
「なぁ、一つだけ頼みがある」
「何だ?」
「俺からも、あいつの記憶を消してほしいんだ…」
「君からも…?」
葎は驚いた様にサスケを見るが、俯いてしまっているサスケの顔は、葎には見えない。
しかし、きっと辛い決断なのだろう。
大切な人との思い出を、無にしてしまうその心中は、葎には分からない。
でも、これだけは分かる。思い出は、良い事でも悪い事でも、自分の過去に必ずあるもの。
それを、消してしまうのは、空白の時間が出来るという事なのだ。
空白の時間からは何も生まれない。
「…分かった。頼んでみよう」
ひしぎは何と言うだろうか。
理由を聞いてくるだろう。ひしぎには全てを話す。
そうすれば、きっと分かってくれると思う。
まだ若い『この子』の辛い決断を。
「幸村の身受けの日にウチの楼閣へおいで」
「悪い…」
葎は軽く息を吐いて、ぽん、と肩を抱く様に項垂れているサスケの背中に手を回す。
そして、ぽんぽんと子供をあやす様に軽く叩き、優しく微笑んだ。
「いや。約束は守ろう。その後は君次第だ。それから、記憶を消すまで俺は君がどうしようと止めないから、好きにすれば良い」
「…ああ」
サスケは苦笑して、葎を見た。
すると葎は、にっこりと笑う。
以前葎を見た時サスケは、嫌味な顔だと思った。
でも今は、気のせいかもしれないし暗がりのせいかもしれないが、そんなに嫌な奴の顔には見えなかった。


「う・・そ…ホントに……?」
幸村は半場放心した様にその場に座り込んでいた。
今日、身請けを受ける事を言ったばかりだ。
それなのに、もう、一週間後には狂の元へ行ける。
早過ぎる狂の行動力には驚かされた。
「あれ、幸?どうした?」
座り込んでいる幸村の背後から、聞き覚えのある声が聞こえる。
その声は、今日、幸村が相談を持ちかけた相手だ。
「李蝶…」
振り返れば、李蝶と李蝶の今日の客だったらしいまだ若い男がいた。
どうやら、李蝶が見送りに行く所だったらしい。
幸村が何かを言おうと思うが、李蝶の横にはその客がいるから、どう言って良いのか分からない。
すると、その客は何かに気付いたようにくすりと笑うと、李蝶の肩をぽん、と叩いた。
「ここまでで良いよ」
「悪いな」
「いや。じゃあまた」
「ああ」
李蝶がにっこり笑いかけると、その客は幸村の横を通り過ぎて楼閣を後にした。
李蝶は手を振って男を見送ると、ぺたんと座り込んでいる幸村の横にしゃがみ込む。
「ンで、どうしたよ?」
「あのね…」
「うん?…あ、ちょい待ち。部屋入ろうか。ここでは目立つだろ」
「…ん」
何だか自分が情けない様な気がして、幸村の目には薄らと涙が浮かぶ。
嬉しいけれど、ビックリしてどうして良いのか分からない時はこんな風になるんだなぁと思う。
李蝶にどう言って良いのか分からず、幸村は立ち上がって李蝶に促されるまま自分の部屋へと入った。


葎で色々と鬱憤を晴らしてから、葎と別れ、サスケは屋敷へと帰ってきた。
そして真っ先に、義父の部屋へと向かい、明かりが点いているのを確認して中へと入る。
「只今戻りました」
「ああ、サスケか。一体今まで何処へ行ってたんだ、心配したんだぞ」
「すみません…」
「いや、まぁ良い。無事に帰ってきてくれて良かった。それで、どうしたんだ?こんな時間に」
「…俺、この家を継ぐ決心が出来ました」
義父に問われ、サスケは一度大きく呼吸して、義父の目を見てしっかりとそう言った。
この家に養子に入ってから、幾度と無く跡を継ぐ事を言われてきた。
しかし、幸村の事もあって、この家を継ぐなんて事を考える余裕なんて全く無かった。
でも、きっと決断を下すべき時は今なのだろう。
義父はサスケの言葉に一瞬驚いた様な表情を見せたが、しかし次第にそれは嬉しそうなものに変わって、笑顔をサスケに向けた。
「本当か?やっと決意してくれたか。有難う」
元より優しい性格の義父は、サスケのその言葉に、本当に嬉しそうに笑顔を向けていた。
しかし、サスケはその笑顔を見ても、まだ笑顔を返すことが出来ない。
次にサスケが言おうとしている言葉は、もしかしたら、その義父の笑顔を違う表情へ換えるかもしれないから。
「…その代わり、条件がある」
「条件?」
「俺は嫁を取るつもりはない」
「な…に?」
案の定、義父からは笑顔が消えた。
不審そうな義父の顔。
「ならば、お前の代でこの家を終わらせるつもりか?店はどうする」
「養子を取る。もしそれで許して貰えるなら、俺はこの家を継ぐ」
「…そうか。まぁ、お前の好きにするが良い」
意外とあっさりと承諾されたその義父の言葉に、サスケは多少面食らったような顔をすると、義父はそれに気付き、笑顔を向けた。
「何か理由があるんだろう?反対はせんよ」
「…何で…」
反対されると思った。
3人の婚約者を用意され、それでも結婚をしないと言ったのだから、勘当は無いにしろ、改心させる折檻なりそれ位の事は覚悟したのに、こんなあっさり自分の我侭が通ってしまった事に、サスケは内心ほっとした。
「わしは昔、好きな人と結婚出来ずにいてなぁ…結局婚約者であった今の『あれ』と一緒になった。お前が結婚したくない理由は無理には聞かん。お前の好きにすれば良い。まぁ、その内わしが生きとる間に気が向いたら理由を聞かせてくれ」
やさしい笑顔でそう云う義父に、サスケはやっと笑顔を向ける事が出来た。
「有難う、『親父』」
今まで余裕なんて全く無くて、ろくに話をした事さえ無かった義父。
でも、今まで偽りの笑顔を向けてきたサスケが、やっと心から向ける事が出来た笑顔は、きっと義父にとっては嬉しいものだっただろう。
そして、サスケは初めて、生まれて初めて『親父』と、自然に口から出てきた。


「で?」
部屋に入ると、二人は適当に座り込み、李蝶は幸村に問う。
「狂さんに返事したら…一週間後に迎えに来るって言われた…」
「・・・は?」
「だから、一週間後に迎えに来るって…」
「はぁ!?早くねぇか!?」
幸村の言葉に、流石の李蝶も思わず声が大きくなった。
それもその筈だ。
今日返事を返したからと言って、1週間後は早過ぎる。
もしかしたら、過去最短ではないだろうか。
今まで身受けをされて行った花魁達は、普通でも返事を返してから相手の所へ行くまで1ヶ月程掛かった。
「だって手続きは終わったから一週間後に迎えに来るって言ったんだもんっ」
幸村は少し慌てた様にそう言えば、李蝶はふぅ、と小さな溜息を吐いて、腕を後ろについて体重をかけ、天井を仰いだ。
客がそう言うんだ、本当なのだろう。
「で、一週間後に迎えに来る…か。やるな、あの客も。一週間後かぁ、早いよな」
「うん…」
「良かったじゃん」
「う…ん…」
「何だよ。もっと喜んだら?やっと好きな奴の所へ行けるんだぞ?しかも一週間で」
段々と声のトーンが落ちて俯いて行く幸村に、李蝶はそう言う。
しかし、当の幸村は苦笑いを零した。
「嬉しいんだけど、何だか嬉し過ぎて拍子抜けしちゃったって言うか…ね」
「寂しい?」
李蝶がからかう様に言えば、幸村は李蝶を見た。
「うん、少しね。今までいっつも李蝶達といたのに会えなくなるって思ったら、ちょっと寂しくなっちゃった」
「ばーか。遊びに来れば良いだろ?そしたらいつでも会えるさ」
李蝶が幸村の鼻先をピン、と弾く。
「痛いなぁ、もう」
怒った様に笑いながら、幸村は弾かれた鼻先を押さえた。
一週間後には狂の所へ行ける。
どんな生活かなんて、今まで狂に聞いても教えてくれなかった。
でも、その狂の生活の中に、自分は入っていく。
幸村はその後、今日の仕事は終わったと言う李蝶と他愛無い話を、見世が終わるまでしていた。


その後の一週間はとても早かった。
楼主の命によって、桜楼閣から幸村の看板は下げられた。
見世先には幸村の看板の横に申伝の紙が貼られ、そこには幸村の身受けの決定と、身受けされて行く日時が書かれていた。
楼閣へ来る客の、その決定に驚く声がいくつも上がり、楼閣の中はその話題で一杯だった。
御職の身受けとあって、幸村と関係の無い客でも花魁との会話にはいくつもその幸村の身受けの話が出た。
そんな中、幸村はと云えば、静かな自分の部屋で小姓に手伝って貰いながら荷物をまとめていた。
まとめると云っても、まとめる物なんて殆ど無い。
自分が来た時は殆ど何も持っては来なかったし、貰った物を持って行こうとは思わない。
残った物は、全て他の花魁に回るか、捨てるだけだ。
幸村は最後に一つだけ忘れていたものを、押入れの奥から取り出した。
カチャ、と音がして、それは鈍い光を放って姿を現す。
「幸村様、それは…?」
「僕がここに来た時に持って来た刀だよ」
「脇差…ですよね?」
「うん」
幸村はそっと、その刀を鞘から抜いた。
懐かしい刀だ。
その刀は、流石と云うべきか、全く使いもせず、手入れもされていなかったにも関わらず錆びていない。
飛び出てくる時、何となく持ち出した物だった。
ここに来てからは押入れの奥へ仕舞い込んでいて、使う事所か見る事さえ一度も無かったもの。
「そう云えば、僕がここに来た時の事、二人には一回も話した事無かったよね」
カチン、と音を立てて刀を鞘へ戻すと、幸村はそう言って二人に笑顔を向けた。
「はい」
「聞きたい?僕がここに来た時の事」
「良いんですか?」
「二人が聞きたいのなら。楽しい身の上話では無いけどね」
そう言うと、幸村は自分のここへ来た時の事を話し出した。
幸村自身、はっきりとした経緯なんて覚えてはいない。
しかし、自分が現実から逃げたくて、『家族』から逃げて来た事。
特に行く宛も無く、陰間寵へ行こうと思った事。
行く道を尋ねた相手が楼主だった事。
そして、この桜楼閣で働き始めた事を、小姓二人に話した。
思い返せば、もう懐かしく感じる随分昔の事の様に感じる話だ。
小姓二人は興味深そうに、幸村の声に耳を傾ける。
そして時折相槌を打ちながら、幸村の話を聞いていた。
「でもね、ここに来て、僕は良かったと思うんだ」
「え?」
「だってね、皆に会えたでしょ?それに、狂さんに会えた」
「幸村様は前向きですね」
「あはは、そう?」
烙葉がそう言えば、幸村は笑う。
幸村の優しい笑顔につられる様に二人もにっこりと笑った。
「二人共、後悔してない?」
「はい」
「大丈夫です」
幸村が突然そう問うと、今度は二人が笑ってはっきりとそう言った。
幸村が身受けされて行く日から数えて丁度一週間後に、二人の水揚げが決まったのだ。
「そっか。なら、頑張ってね。この仕事も、案外悪く無いから」
幸村はそう云うと、勢いよく立ち上がった。
花魁衣装を着ていないから、動きやすい。
「よしっ。後ちょっとだし、片付けちゃおうか」
「「はい」」
三人は見世からの楽しそうな笑い声を聞きながら、残り僅かとなった後片付けを始めた。
もう、明日は身受けの日。
何処と無く、幸村の行動は寂しさを紛らわす様な節が見えた。



身受け当日。
まだ昼にも関わらず、桜楼閣はざわざわとした喧騒がいつもより大きかった。
空気が浮き足立って、人が多い。
桜楼閣の前には大勢の人でごった返している。
高級陰間として名高い桜楼閣の御職が身受けされていくとあって、客がそれを見に集まり、桜楼閣以外の楼閣の花魁達も集まって来ている。
桜楼閣の花魁達は全員で列を作って、幸村を見送る。
本当なら他の見世の花魁が出てくるなんて事は今まで殆ど無かったのに、皆幸村の見送りに出てきてしまったのだから、それだけ人望も厚かったのだろう。
「幸村、元気でね」
「有難う」
不知火がにっこりと笑って幸村に声をかければ、幸村もそれに笑顔で返すようににっこりと笑う。
「いつでも遊びに来いよ」
「そうだね、李蝶。『からかいに』来るよ」
「お前なぁ」
くすくすと笑いあって、李蝶の頬にキスをした。
以前来た海外にいたという客に聞いた。
嬉しい時には、外国では頬にキスをすると云う。
李蝶は少し赤くなって、苦笑している。
「ほたる、元気でね」
「…ん。幸村もね」
李蝶の横にいたほたるには、幸村は自分から声をかけた。
まだ眠そうなほたる。
眠いのに、きっと起きて来てくれたのだろう。
ほたるの横を通り過ぎ、他の花魁達に見送られ、幸村は楼主の前まで来た。
列の一番端に、幸村を迎えに来た狂と共にいた楼主。
「葎、今まで有難うございました」
「ああ。元気でな。いつでも遊びに来い」
「うん」
少し、目頭が熱くなる。
長い間ここに居た。
友達も、心を許せる親友も出来た。
でも、今度は好きな人の側へ行く。
何とも云い難いその感情が入り混じって、涙が出そうだった。
「幸村、行くぞ」
「ん。じゃあ」
「ああ」
狂に促され、幸村は楼閣を後にした。
振り返らない。
きっと、振り返ったら今度こそ涙が溢れる。
これからは好きな人と一緒に生きていく。
「ね、狂さん」
「あ?」
「僕、幸せだよ」
幸村は狂を見ずにそう言った。
すると、狂の雰囲気がやわらかくなるのが分かる。
「ああ」
行った事の無い場所で、初めての事も一杯だろう。
でも、狂と一緒なら、きっと自分も馴染める気がする。
どんな事があっても我慢出来る。
今まで狂がしてきた生活はどんなモノなのだろうか。
先刻までの思いとは裏腹に、幸村は期待が高まっていく。
狂が籠屋を連れて来たけれど、幸村はそれを断った。
狂と同じ早さで、並んで歩きたい。
狂と、これからの生活についてゆっくり話をしたい。
そう思ったから。
いろんな期待に胸を躍らせながら狂と話していると、ふと目に留まった一人の青年に目を奪われた。
変わった髪色だから、目についたのだろうか。
見た事の無い、白に近い銀の髪に、印象的な眼。
何か祝い事でもあったのだろうか。服は家紋の入った白い礼服で、何処と無く大人びた青年だ。
そう云えば、今日近くの問屋で引継の祝い事があると、誰かが言っていた。そこの関係者だろうか。
それとも、まだ陰間寵の中だから、何処かの楼閣の客だろうか。
その青年は、幸村の視線に気付く事が無いかの様に、ゆっくりとした足取りでやって来る。
幸村も特にそれを気にする事も無く、ただ変わった青年だと思うだけで、今の幸せに、狂の腕にきゅっと抱きついた。
しかし青年が一度だけ自分の方を見たのに気付き、笑顔で会釈をする。
すると、青年も会釈を返してきた。
そして…

『幸せにな、幸村』

横を通り過ぎる瞬間、幸村にはしっかりとそう聞こえた。
風が吹けば掻き消されそうな位淡い声だったのに、何故かしっかりとした、懐かしい様な優しい声音。
驚いたようにとっさに振り返るが、その青年が歩いていった筈の方向にはそんな青年は見当たらない。
何故か、心の奥がきゅっと締め付けられた様で、しかしそれは何処か暖かい、不思議な感覚に襲われる。
「どうした?」
「う・・うん。何でもない」
「…何でもないなら何で泣いてんだ」
ふいに立ち止まった狂の声は、少し不快そうで。
でも幸村は、涙を拭う事もせず、笑顔で狂を見上げた。
「何でも無いよ。嬉しいの」
「はっ、そうかよ」
狂は何処か満足げにそう笑って返すと、二人は再び歩き出した。



淡い閉じられた記憶は、二度と蘇る事の無い想い。
でもきっといつかは、また巡り合うだろう。
それが何処でも構わない。
互いが互いの存在を知り得ない場所で、いつまでも消えることは無い。
もしも巡り合う事があった時、それはきっと『力』を持つ者の悪戯だろう。
繰り返さない過去と、繰り返しえない現在。
互いに記憶を無くし、それでも、何処かで幸せを手に入れた二人。
このお話はそんな二人の、淡く儚いお話です―――・・・



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