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番外編 揺蕩う月

―星も無くただ月だけが水面に映る
揺蕩う漣に遮られてしまう影が
いつか貴方さえも遮ってしまうだろう―




「懐かしい謡だね」
「あ?ああ、お前か」
李蝶が廊下に足を投げ出して座っていると、突然後ろから声が掛けられた。
今日は満月の綺麗な暖かい夜だ。
そして、一年に一回の特別な日。
この日だけは、陰間寵は休みで、どの楼閣も静かになる。
いつも人で賑わいを見せる此処も、今はしんと静まり、虫の囀りさえ聞こえる位だ。
だから、きっと先刻の李蝶の口ずさんでいた謡も聞こえたのだろう。
「誰だと思ったの?」
「いや、別に」
「そう、なら良いんだけど」
不知火がすとん、と李蝶の隣に腰を下ろすと、暫らく二人は何も話さず、満月を見上げていた。
時折風が二人の頬を掠め、髪を弄んで行く。
虫の囀りが音楽の様だ。
まだ秋になりきっていないこの季節には珍しい、外でじっと空を見上げるのに丁度良い温度。
少しだけ間が開いたこの関係が、二人には何処か安心出来て心地良かった。
どの位そうしていただろう。
囀りに誘われる様に、李蝶はまた謡を口ずさみ始めた。




―星も無くただ月だけが水面に映る
揺蕩う漣に遮られてしまう影が
いつか貴方さえも遮ってしまうだろう
それでも私は春を待つの
きっと貴方は私の元に来てくれるから―




「…誰だっけ、それ詠ってたの」
「さぁな。まだ俺が小姓やってた頃だし、忘れた」
「僕も忘れちゃった。懐かしいよね。あの頃」
ふと、不知火から優しい笑顔が零れ、不知火は少しあった二人の距離を少し縮めた。
いつも優しい不知火でも、殆ど見せる事が無い位の優しい笑顔。
それにつられる様に、李蝶からも笑顔が零れた。
「何だよ」
「ううん。ちょっとね、思い出してたの」
「昔の事?」
「うん。僕達って小姓の頃はいっつも喧嘩してたよね」
「つーかあれはお前があんまりツンケンしてたからだろ、不知火『嬢』?」
李蝶が優しい笑みを何か企んだ子供の様な笑顔に変えると、不知火は少し怒った様な顔をした。
「それは言わない約束でしょ?」
「そうだっけ?まぁ、昔のこったろ。気にすんなよ」
「いじめっ子」
「天邪鬼」
二人はそこまで言うと視線を合わせ、くすくすと笑った。
そのまま李蝶は後ろへ倒れ込んで「んーっ」と伸びをすると、不知火もそれに習ってころん、と後ろへ寝転がる。
昔を思い出す。
昔から二人は仲が良かったわけではない。
寧ろ、顔を合わせる度に喧嘩をして、互いがついていた花魁達に怒られ、呆れられ、そして笑われていた。
相手の何かが嫌とか、そういう類の喧嘩ではなく、ただ、お互いが気になって仕方なくて、それが喧嘩という形になってしまっていただけだったのだけれど。
その頃はこんな風に二人で一年に一回の、この辺の町行事の特別な日を過すなんて思ってもいなかった。
「静かだね」
「そうだな」
「ねぇ、李蝶。さっきの謡の続きって知ってる?」
「ああ。何回も聞かされたからな」
「謡ってくれる?」
「…良いよ。でもその代わり、お前は『これ』な」
少し何かを考える様な仕草をしたが、李蝶はそう言いながら、すっと不知火に懐から取り出した何かを渡した。
それは一本の扇子。
細かい細工の施してある扇子は、舞妓が使うものだ。
「…踊れって?」
「そ。得意だろ?」
「はぁ…。李蝶に言うんじゃなかったって何回も後悔したんだよね…」
「今更だろ?俺だって謡ってやんだから、お互い様だ」
不知火は仕方ない、と李蝶から扇子を受け取る。
元々、不知火は日本舞踊の、李蝶は謡詩吟の家元の家系に生まれ、いつか家を継ぐ筈だった。
それが、わけあって二人ともこの桜楼閣に入ってきたのだ。
入ってきた理由はお互い言いたくはないが、何処の出だという事だけは、他の誰にも言わずとも、互いにだけ話していた。
「最後まで?」
「俺が飽きるまで。お前の舞、好きだからな」
「有難う。僕も李蝶の声、好きだよ」
「…何か告白みたいだな」
李蝶は楽しそうにそう言うと、不知火は呆れた様に軽く溜息を吐いた。
「もういい加減にしてよ。…ね、李蝶、詠って?」
「はいはい。」
不知火が廊下から下りて庭園に下りると、李蝶は風に乗せる様にそっと詠い始めた。




―星も無くただ月だけが水面に映る
揺蕩う漣に遮られてしまう影が
いつか貴方さえも遮ってしまうだろう
それでも私は春を待つの
きっと貴方は私の元に来てくれるから


幾年幾月
過ぎる日を想い来る日を待つ
ここは桜の咲く所
春の訪れをいつも待ってる
例え水面の影が消えても
きっと隣には私がいるから


ずっと想ってた
ずっと信じてた
ずっと待ってた
それでも時は過ぎるばかり
貴方はもう私を思い出してはくれないのでしょうか
貴方が付けてくれた痕はもうとっくに消えてしまった―





「結局、この謡って実らない恋の謡だよな」
そこまで詠い終わると、李蝶は溜息と共にそう吐き出した。
悲しい謡。
「うん。此処の誰かが作った謡って聞いたけど…」
それは語り継がれてきた謡。
この桜楼閣にいた花魁が詠ったのだというそれは、とても悲しいものだ。
客に恋をした花魁の、悲しいお話。
「どうなったんだろうな」
「…うん」
この謡を聞く度に、二人は胸が締め付けられる思いがした。
綺麗な音に乗せて謡うそれは、身に覚えが無い感情だとは言い切れない。
こんな仕事をしているからこそ、尚更分かる物がある。
「――その人、どうなったか教えてあげようか?」
「へ?」
「あ…」
ふいに掛けられた声の主に目を向ければ、そこにいたのは楼主の葎だった。
「どうなったか知りたい?」
いつもとは少し違う雰囲気を纏った楼主は、にっこりと笑って二人に再びそう問う。
雰囲気が違うと思ったのは何故だろう。
髪が濡れているからだろうか?
それとも、着ている物が違うから?
分からないけれど、今はそれよりも、葎が先刻言った言葉の方が気になった。
「知ってるんですか?その人がどうなったか」
不知火が興味津々、という風にそう問えば、葎はにっこりと笑った。
「勿論。ダテにここの楼主なんてやってないからな。…って言っても、それを作った花魁がいたのは俺の親父の代だったけど」
「どうなったの?」
今度は李蝶がそう問えば、葎は一度二人の顔を見て、空へと視線を向けた。
空には満天の星が輝き、月が庭園を照らし出している。
明るい月は、しかし何処か憂いを帯びて、だからこそ美しい。
「和-なごみ-って花魁がそれを作ったんだ。和はお前らも知ってるだろ?」
「え…?和って…」
「あの和様…ですか…?」
和。それは、李蝶達がまだ小姓だった頃、二人がそれぞれついていた花魁と同期の花魁だった。
とても美しい人だったと、今でも鮮明に覚えている。
いつも御職の座にいて、どんな人にでも厳しく、しかし優しかった。
独特の雰囲気は、和が祖母が中国系だった事もあるのだと、聞いた事がある。
しかし…
「和様って確か身請けされてったんじゃなかったっけ?」
「そうだよ。よく覚えてるね」
「だって身請けされるって決まった後、凄かったじゃないですか。その倍値で買うって言う人達が一杯居て…」
「そうそう。人気絶頂の時に身請けされてったから余計に凄かったし。あの時和様の身請け交渉したのって確か楼主だったって話聞いたケド…。あれ?楼主っていまいくつ…?」
「さぁ?いくつだろうねぇ。ま、そんな事はどうでも良いだろ?それより、和の事、最後まで聞かなくて良いのか?」
葎は李蝶の疑問の眼差しを軽く交わして、二人に笑いかける。
すると、二人はまだ話の途中だった事にようやく気付き、身を乗り出して葎の話に聞き入った。
「身請けされてったって事は、和様は好きでも無い人の所に行ったって事?」
「この謡だと好きになった人が来てくれなかったって事ですよね?」
二人のそれはまるで、何か興味の惹かれる話を必死になって理解しようとしている子供の様で。
本当に興味のある事にしか反応しない時さえある二人がここまで興味を持つ位だから、きっとその謡の結末が気になっていたのだろう。
「まぁまぁ落ち着いて二人共。その謡はまだ続きがあるんだよ」
「「続き?」」
二人は以外そうにそう、同時に呟いた。
それがおかしくて、葎はぷっと吹き出す。
本当に、子供の様だ。




―月の光が貴方を照らし出す
水面に映る影が形を保って漣が謡を詠う
貴方が春を運んで来たの
過ぎた日々に別れを告げて
私の元へ来てくれた貴方と聴いていた


来る日明ける日
漣の戯れ 星のザワメキを聴く
貴方と共に過ごす日々を
これからもずっと思い描く
例え私が消えてしまっても
春は訪れを待っていた


ずっと待ってる
ずっと思ってる
ずっと信じてる
貴方がくれた大切な時間
貴方と過ごす日々の大切な思い出
貴方がくれた痕はもう二度と消えることは無い―




「聞いた事無い?」
葎がそこまで詠い終え、そう問うと、二人は小首を傾げていた。どうやら、聞いたことはないらしい。
「それってそれで全部?」
「和様は好きな人の所に身請けされて行ったって事ですか?」
二人は口々にそう言い、葎は苦笑を零す。
「あんまり一辺に聞かれても答えられないだろ?順番にな。この謡は途中抜かしてるけど、まぁこれで全部。で、和は自分から望んで身請けされてた。これで満足か?」
「へぇ…」
李蝶が納得した様にそう呟き、物事を知る以外な葎の一面に、葎を見上げた。
しかし、どうも不知火はまだ何か聞きたい事があるのか、遠慮がちに葎を見上げている。
「不知火。どうかした?」
「あの…、和様って今どうしてるんですか…?」
「それは内密事項なんだけどなぁ…」
「あ、そうですよね。すみません…」
しゅん、と先刻までとは裏腹に大人しくなった不知火に、葎は丸く大きな月を見上げた。
丸い大きな月は世界を照らし出している。
自らは光を放たない月が、光を反射して世界を照らす様は、とても不思議だ。
「まぁでも、もうこれも時効かな…」
葎は誰ともなしにそう呟くと、空を仰いだままふと目を瞑り、囁く様に二人に言葉を放った。
「和は死んだよ」
静かな声音。
上を向いているから葎の表情は分からないが、しかしその声は何処か悲しそうで。
二人は驚きを隠せない様に葎を見上げた。
「死んだ…?」
「亡くなった…んですか…?」
「ああ。死んだよ。3年前に」
そう言って二人を見る葎の顔は、やっぱり悲しそうで、声だけを聞くと泣きそうだと思う。
「何で…」
「病気だったんだよ、ここにいる時から。あの歳まで生きていたのが奇跡に近かった。医者には前から長くないって言われたけどな」
葎は淡々と語る。
泣きそうな声音に悲しそうな表情はそのままなのに、口調はやけに淡々と。
「さあ、二人とももう部屋に戻って。明日からまた仕事だからな」
葎は突然、そう声を弾ませて手を一度パン、と打つ。
それに遮られたその場の沈んでいた雰囲気は一気に和らいだ。
まるでそれは今話した事の全てを忘れさせようとさえしているみたいで。
「こんな日だから寝ろとは言わないケド、取り敢えず部屋に戻んな」
葎は二人を立たせると、とん、と背中を押した。
今日は年に一度の特別な日。
大切にすべき人と時間を過ごす為の一日だ。
夫婦で、親子で、恋人同士で。
誰でも良い。大切だと思える人、思った人と、一緒に過ごす一日。
だから、陰間寵は休み。
そんな日に、奥さんがいるのに楼閣へ来られたらたまったもんじゃないと、陰間寵は門を閉じるのだ。
陰間寵は基本的にこういった行事を大切にしている。
元より、陰間寵を創設した人達がそういったものを大切にしていたから、その慣わしが今でも残っているだけなのだけれど。
「あいよー。おやすみ、楼主」
「おやすみなさい」
「おやすみ、二人とも」
葎は二人が廊下を曲がって部屋へ戻っていくのを見届けると、また月を見上げ、懐から髪紐を一本取り出す。
深い緑がかった、金と銀で装飾された髪紐。
桜楼閣内になら何処にでもありそうな、極々普通の髪紐を、ぎゅっと握り締め、葎は庭園に下りた。
そのまま、庭園の一角にある小さな塚の前までくる。
それは塚と言えるほど立派なものではないけれど、葎はそこに腰を落とした。
「和…」
そう呟き、思い出す。

和を身請けしたのは、葎だった。
和が病気だと知ったのは、葎が和を好きだと確信してから。
時折医者が来ていたのは知っていたが、誰の元へ何をしに来ていたのか知らなかった葎は、父親にそれを問うと、父親は頑として言おうとはしなかった。
今思うと、きっとあれは父親の自分に対する『愛情』だったのだろう。
葎が和を好きだったことは、きっと言わなくても分かっていた筈。
同じ年だと分かったのは随分前だったけれど、和は葎よりも大人びていた。
物事を冷静に考える事が出来るようになったのも、和のお陰。
和から、葎は色々な事を学んでいた。今の葎があるのは、きっと和がいたからこそだろう。
父親に和を身請けしたいと言うと、父親はすぐにそれを和に伝えたようだった。
その頃はもう、二人は幾度と無く父親の目を掻い潜り体を重ねていたのだから、和の答えは分かりきっていて。
和の身請けは桜楼閣へ与える影響は大きかったけれど、父親は花魁達を大切にしていたから、花魁の望む事は極力叶えたいと、葎が和を身請けする事を了承した。
和は葎の元へ来た。
そして3年前、和は死んだ。
医者が言うには、ここまで生きられたのは奇跡に近いと云う。
和は幸せだったのだろうか。
和とは、身請けをして自分の所に来てから、幾度となく喧嘩もした。
その度にどちらともなく互いを求めた。
素直になれなかったけれど、お互いがどう思っているか不思議と分かっていたから、敢えて口にするまでも無くて。
ただ、毎日が楽しかった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
大切な人を亡くした後の虚しさ。
何もする気が起きなくて、桜楼閣はしばらくの間、葎無しで動いていた。
毎年、この行事の日だけは二人だけで過していたのに、この行事を一人で過すのは3回目だ。
だからと言って、誰かと過ごそうと云う気にもならない。
きっと、分かってるから。
後1週間。
後一週間後は和の命日だから。
その日だけ、弱くなっても良い。
もう誰も好きになんてならない。
そう思っていたのに…


この後、葎は出会ってしまう。
珍しく陰間寵から出て暇を持て余して立ち寄った茶屋で。


和、俺はどうすれば良いんだろう。
今のこの思いを、和は怒るかな?
君以外の人を好きになる事を。
和、どうすれば――


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