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新・第壱幕-初話  金木犀の香る風


「和ー、なーごーみー」
まるで幼子が母を呼ぶように、何度も何度も屋敷の中を木魂する声。
その声に気付き、縁側で座って洗濯を畳んでいた和はくすりと笑う。
「こっちだよ、葎」
近くまで来ていた葎に、声を張る事もなく静かにそう言うと、葎は和の姿を見付けて嬉しそうに笑った。
和の声はとても澄んでいて、聞いていて心地良い。
男の物とも女の物ともつかないとても中性的な声は、その容姿にとても合っている。
「ああ、こんな所に居たのか」
「今日は風が気持ち良いから。それより葎、お仕事は?」
穏やかに綴る言葉はまるで琴音にも似て綺麗で。
洗濯物を畳む手を止めず、視線さえも向けてこない和に、しかし葎は穏やかな表情を向けた。
「休憩中。この時間は皆のんびりしてるからな。俺も少し位のんびりしても良いだろ」
「ふふ。僕も久し振りに『あっち』に行きたいな」
まだ少し熱を持つ風が優しく吹くと、和の切り揃えられた髪を撫でて行く。
ようやく夏が終わり、冬に向けて風や自然が装いを変て行くこの季節。
御職の地位から退き、引退した和は葎に身請けされた後、葎の屋敷でのんびりと過ごしてどれだけが経っただろう。
可愛い後輩達が楼閣と隣接しているこの屋敷にはたまに遊びに来るけれど、幼い頃から過ごした楼閣の空気に馴染んでしまっている和は、あの空気に時折戻りたくなる時がある。
良い思い出ばかりではないけれど、今思い出すのは楽しかった事ばかりだ。
和からは自然と笑顔が零れ、その様子を愛おしい様に見詰めていた葎は、ゆったりとした足取りで和へ近付くとその傍に腰を下ろす。
くっつき過ぎれば和が鬱陶しがるから、少しだけその間には距離がある。
人一人は入れないだろうその少しの距離が心地良い。
「少しずつ涼しくなってきたね」
「でもまだ暑いだろ。あんまり陽にあたり過ぎるなよ」
「大丈夫だよ、葎は心配し過ぎ」
くすくす笑いながら、和は最後の一つを畳み終えると、それを今までたたんでいた他の物に重ねた。
まるで普通の夫婦の様に、葎の物と自分の物を一緒に洗濯をして、畳んで、葎の為にご飯を作って。
笑い合って、喧嘩して、時には泣いて。
怒涛のように1日が慌しく流れていく楼閣とは違うこの生活の優しい時の流れにも、ようやく慣れてきた。
「ふぅ、洗濯物終わり」
そう独り言を呟くと、和は正座をしていた脚を崩す。
すると、その脚を崩した分だけ葎に近付き、葎に体重を預けてそのまま葎の肩に頭をことんと乗せた。
その子猫が甘える様な可愛い仕草に、葎からは優しい笑みが零れる。
「こっちは静かだな」
「そうだね」
「もう少し涼しくなったら見世の庭で月見でもしようか」
「うん。皆も呼びたいな。来てくれるかな?」
「お前が誘ったら来るだろ」
「だと良いな。お月見なんて久し振り。あ、そういえば明後日はお祭だって」
「ああ、そういえば何か騒がしいと思ったら祭か。行きたい?」
「ん、行きたい。見世に居た時は殆ど行けなかったから」
ゆったりと座ってくすくす笑いながら、二人でのんびりと過ごす時間。
雲が散布した秋らしい空顔の快晴。
のんびりとのんびりと、時間が止まらないかと思う位にゆっくり流れていく雲。
心地良い風を浴びると、眠気に誘われる。そんな陽気だ。
「和」
「ん?…ちょ…っ、ダメだよ葎っ」
不意に名前を呼ばれ、目を閉じてその風の流れを感じていた和が目を開けた途端、自分の上に何かが覆いかぶさってきた。
何かなんて確認するまでもないけれど、それをしっかりと捉えた和は、抵抗する様に自分の上に覆いかぶさって来ている葎の胸板を力一杯押し返す。
「何するのさっ」
「何、ってナニ」
「イヤだってば…!昼真からこんな事しないってこの間約束したばっかり…っ」
そう言う和の表情には段々と怒りと呆れが込められてくる。
それもその筈だ。
つい先日も似た様な事があり、昼真からこんな事はしないと約束をしたばかりだ。
和なりの妥協と葎からの要望で、夜は好きにして良いと云う、何とも寛大なおまけ付きだけれど。
いくら相手が『愛しい旦那』とは云え、せめて1ヶ月位はその約束を守って欲しかった和にとっては、苛立ちさえ覚えて一発位喝を入れてやりたくなる。
しかし、そんな事が出来る筈もなく、虚しくも葎の力に抗うので精一杯になっていた。
「それに昨日の夜だって散々したでしょ!?どんだけ単細胞なのバカ葎!」
「単細胞ってお前な…。男の性だ」
「僕だって男だけどそんな単細胞じゃない!」
ぐいぐいと互いに退かずに力比べの様に押し合う。
しかし、力比べで和が葎に叶う筈も無く、押し返した分余計に反動がついて和は縁側に押し倒された。
まだ真っ昼間。
いくら見世ではないとは云え、誰が来るとも分からない庭先だ。
近付いてくる葎の顔を張り倒してやろうかとも思ったが、しかしいくら葎が全面的に悪いとは言え無駄な喧嘩等したくはない。
一瞬の躊躇い。
その隙に、和の唇は葎のそれに塞がれた。
「ふ…ンんっ」
口腔をなぞられる感覚に、和からは自然と声が洩れる。
暫くそうして葎に口腔を犯され、ようやく離れた頃には和の息は軽く上がっていた。
「…葎」
昂揚した頬はとても艶めかしく、しかしその目は葎を見据え、冷ややかに微笑んでいた。
目が笑っていない。
それを察知した葎は軽い恐怖を覚えて押し倒していた腕の力を緩めた。
「これ以上したら怒るよ?」
そういう口調はとても穏やかだけれど、声色は完全に負の物を含んでいる。
和の静かは怒りは、葎にとっては何よりも恐ろしい。
下手をしたら、声をかけても無視をされ、幾日も口を利いてくれなくなる事さえある位だ。
「…ゴメンナサイ…」
「分かれば宜しい。退いて」
情けない声で謝る葎に、和は溜息交じりにそう言うと、葎の腕をさっさと退けて畳んだ洗濯物を持って廊下を歩いて行ってしまう。
惚れた弱みか、文字通り葎が和に弱いだけなのか。
どちらとも取れる曖昧な所ではあるが、葎が和に勝てた試しが無いのは言うまでも無い。
「和ー、悪かったからそう怒るなって」
縁側に足を下ろし、後ろに手を付いて体重をかけて廊下の角を曲がってった和にそう声をかける。
しかし姿の見えなくなった和からは何の反応も無く、静かに時が過ぎるばかり。
声が届いていなかったのかとも思ったが、恐らくそうではない。
短い時間ではあるけれど、和を怒らせたという後ろめたさからその時間は長く感じた。
「そんなに怒る事ないだろー…」
独り愚痴てみるが、それを小莫迦にする様に小鳥が囀りながら大空を飛んでいくのを聞いていると、何だか虚しい。
和からはあまりにも何の反応も返って来ず、葎は膝に肘を置いて、その手の中に溜息と共に顔を埋めた。
その時・・・
「怒ってないよ」
不意に近くで聞こえた声に振り返れば、そこには呆れ半分笑顔半分の表情を浮かべた和が、盆を持って立っていた。
「怒ってるって思ったって事は、悪いって分かってたんでしょ?だったらもう良いよ」
「…ごめん」
「もう良いってば。ほら、お茶。熱いから気をつけてね」
葎の隣に来て腰を落とし、コトンと傍に置かれた湯のみからは湯気が上がっている。
その隣には、もう一つ和の湯のみ。
一時の嵐の後には、必ず平穏が訪れるものだ。
温厚な和が真剣に怒る事など滅多に無いし、無益な争いを嫌う和があの程度の事で怒る事はないとは分かっていても、それを溜め込んでいるのを知っているからこそ、余計に自己嫌悪に陥る事がある。
怒りや悲しみ、その負の感情全てを押し殺す事が和にとってはもう当たり前になっていて、それが一定量を越えると、涙となって表に発散された。
その発散する場所はいつも和が独りの時ばかりで、葎はその時和の傍に居てやりたいと願っている。
自分が傍に居る時は、溜めずに怒りも悲しみも何もかもを全てぶつけて来れば良い。
今の段階では、まだ葎は和のそんな奥底の内面までは掴みきれて居ないのだろう。
他の誰かよりは自分に対して感情を表に出して来る様にはなったけれど、恐らくはまだそれが和の全てではない。
焦るつもりも無いしそれを急かすつもりもないけれど、いつか和の全てを知る時が来れば良いと思っている。
「・・・が」
「ん?」
ぼんやりと考え事をしていた葎は、和の言葉を逃して聞き返す。
すると、和は茶を一口啜って再び言葉を紡いだ。
「李蝶達がもうすぐ水揚げだってね」
「よく知ってるな。誰かから聞いたのか?」
「神楽がね、この間来てくれた時に教えてくれたの。時が経つのって早いね。あの子達ももうそんな歳になったんだ…」
振袖新造から花魁へ。
それは楼閣に居る者全てが通る道であり、勿論和も通ってきた道だ。
禿から振袖新造へ上がり、花魁になるまでのは大体の過程決められていて、それには年齢が関係してくる。
勿論年齢だけではなく、禿の時に教養を見に付けなければならないのだけれど。
「あいつらの水揚げの相手はもう決まってる。きっと綺麗な晴れ姿を見せてくれるだろうさ。水揚げの日は行ってやると良い」
「うん。…本当に早いね…」
自分の水揚げの時はどうだっただろうか。
記憶にあるのは、怖かった事。
自分の初めての客がどんな人物なのかも直前まで知らされていなかったし、何よりも全てを自分一人でやらなければならない事が不安だった。
それまでは他の振袖新造達と一緒にやってきていたのに、いきなり一人で放り出される気分で、自分に出来るのだろうか、と不安で押し潰されそうな日が続いて。
もし、水揚げを終えた後ずっと茶を引く事になったらどうしよう。
上手くやっていけるのだろうか。
振袖新造をやっていた時に花魁だった皆とは争う事になる。
だからと言って、争いに入った所で人間関係が大きく変わるわけではないとは思うけれど、やっぱり何かが変わるのではないか。
自分が付いていた花魁は、傾城を争う人だった。
そんな人に付くのは大抵引っ込み新造だと言われているけれど、自分が到底そんな風になるとも思えない。
不安だけが、ただただつのって…。
鮮明に覚えているのはそんな事ばかりで、初めての床入れの事は正直あまり覚えていない。
結局、自分は傾城にまで上り詰めた。
それは同期を蹴落とし、そして自分が付いて目標としていた花魁をも蹴落とす事になったのだが。
誰一人としてそんな自分に陰口を叩いていると聞いた事はないし、ましてや色町の様に蔑む事や罵る事もされなかったけれど、多分自分の中で自分を罵っていた。
和にとっては、傾城なんてどうでも良い。
傾城になるという事はつまりそれだけ自分を売っているという事。
ある程度までの融通はきくようになるけれど、その反面売る事を強める事に変わりは無い。
今考えるだけでも、ぞっとする。
幸せを手にしたからこそ思う感情ではあるけれど、一体どれだけの客に抱かれただろうか。
暫くそれを考え、馴染みとして通っていた客だけを考えても、それを途中で止めてしまう位の数だ。
「僕があそこに居た頃の簪、一つずつあの子達にあげても良いかな」
「お前がやりたいのならやれば良い」
「あそこに居た頃に使ってたのって、全部葎に貰ったやつだよ?」
客に貰ったものは一切つけてなかったから、と言いながらくすくす笑う和は、ちらりと葎を窺い見る。
すると、その視線に気付いたのか、葎は盛大に溜息を吐いた。
少し視線を彷徨わせて考える素振りを見せ、しかしすぐにそれは諦めたような笑顔に変わり、和の頭を優しく撫でる。
「良いよ。お前にはまた新しいの買ってやる」
乱れの無い整った和の髪質は触っていて心地よくて、その長い髪を手で漉いては悪戯に指先に戯ばせた。
綺麗に切り揃えられた横髪。それが和が動く度にの頬を撫でている様は何処か御伽噺のお姫様の様で。
この髪に自分の贈った簪を挿していた頃の和の素朴で優しい艶妖さは、一種の毒牙と一緒の輝きを持っている。
今ではその強過ぎた『色』は落ち着いてきたから、きっとあの頃とは違う簪で、もっと今の和に似合う物が見付かるだろう。
もっとも、髪を結う事が殆ど無い今では、簪を挿す事なんて滅多に無いけれど。
「平和呆けしそうだ」
「もうボケてるじゃない」
「ボケてるじゃなくて呆け……待て。誰がボケてるって?」
「べっつにー。…ん?」
悪戯に二人の間を過ぎて行く風。
鼻先を掠めていく、少し早い金木犀の匂い。
しかしその中に、ふいに和は何かを感じた。
何か音が聞こえたわけでもないし、見えたわけでもない。
しかし、長年楼閣に居た頃の花魁としての感覚が、何かを訴えている。
「葎、何か見世の方が…」
「は?何?」
「何だろう…おかしい気がする」
空気だろうか。
何故、この感覚が楼主である葎に分かって貰えないのかがもどかしくて、しかしそれをどうにか言葉にしようとする。
空気が騒がしい。
感覚で分かる部分での話だけれど、間違いない。空気がざわめいている。
これは、花魁をしていた時に感じた事のある空気の感覚だ。
しかしそれが何だの感覚だったか、後少しの所で思い出せない。
「葎・・・・見世で・・・」
「楼主!」
どうにか伝えようと和が不安げに葎の着物の袂を掴んだ時、急に楼閣の方にある門から神楽が飛び込んできた。
いつもは鉄面皮と言われる位物怖じもしなければ同様すらもしない神楽らしくもないその様子に、葎は怪訝に眉を潜める。
「どうした。何かあったのか?」
「男が急に見世に入ってきて騒ぎを起こしました。茉莉(まつり)を出せと要求しています」
「何…?寵門はまだ開いてないだろう」
「どうやら業者の者に混じって大門をくぐった様です」
ああそうか…。
和は神楽の言葉を聞いた瞬間、その感覚が何だったかを思い出した。
流血の感覚だ。
人間から血が流れる瞬間というのは、ある種の空気の振動がある。
それは周りの焦りや驚愕、人間の感情の変化により起こる振動で、何かが大きく変化するという程のものではない。
しかし、こんな仕事をやっていると、どうしてもそういった事件には遭遇してしまうのだ。
客の乱闘や人傷、人情の渦巻く遊郭では珍しいものではないからこそ、その微妙な空気の差にも反応してしまう。
「仕方ないな、行って来る。ここで大人しくしてろよ」
「葎・・・!」
袂を摘んでいた手に更に力がこもる。
以前、同じような事があった時、葎は怪我をして戻ってきた。
また繰り返すのだろうか。
平穏に過ぎていた時間が、一気に加速していく。
こう云う騒ぎは珍しい事ではないけれど、妙な胸騒ぎがする。
しかし、そんな和の心情を悟ったのか、葎は優しい笑顔を和に向けて頭をそっと撫でた。
「今度はあんなヘマはしない」
「でも…」
「和。俺の楼閣は俺が守らないといけない。分かるな?」
そこに在ったのは、先ほどまでの情けない声を出す様な葎ではなく、楼主としての目をした葎だ。
その葎に、和が言える事は一つしかない。
「気を付けてね」
「ああ」
神楽と共に出て行った方を見詰めたまま、和は葎の袂を掴んでいた手をきゅっと握る。
妙な胸騒ぎが納まらない。
今までこんな風にいつまでも納まらない事なんて無かったのに。
大抵直ぐ納まる胸騒ぎは自分の取り越し苦労。
けれど、今は違う。
何故か、自分の握る指先は凍て付いていた。
「葎…」
出来る事なら見世へ行ってしまいたいけれど、「『ここで』大人しくしていろ」と言われた。
和はもう葎に身請けされ、正確にはもう楼閣の人間ではない。
そんな和に出来る事は、無事であるように祈るしかなかった―――――


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