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第1幕弐話 風そよぐ

 まさか、狂が自分を身請けしようなどと思ったとは到底思えず、幸村は返答しかねる。
 信じられない、という思想の方が、幸村の脳の大半を占めていた。
 どう応えるべきか考えるが、静かに時間は刻々と過ぎるばかり。
 幸村はもう一度、確認するかの様に狂を伺い見た。
 しかし、何度見ても、狂の目は本気なのだ。
「・・・悪いけど、少し考えさせてくれないかな…」
 結局、幸村の出せた今の答えはこれしかなかった。
 思考が追いついていかない。
 考えが纏らず、どうするべきか、自分はどう返答するべきか、どれだけ時間が経過しようとこの短時間では応えを弾き出す事は出来なかった。
 狂の身請けは、無下に断わる事など出来ない。
 馴染み客だからとか、そういった理由ではなく、自分の中で整理をつけたい。
 狂の元で過ごすのも良いかもしれないと、頭の何処か片隅ではきっと思っている。
 今まであった身請けには、その日の内に断わっていたが、どうも狂相手だと、すぐに断わる事も了承する事も出来なかった。
 考える時間が、今は少しでも多く欲しい。
「ああ、ゆっくりでも良い」
「うん…有難う」
「…呑み直すか」
 狂は気が抜けた様にそう呟くと、着物を適当に羽織った。
「あ、じゃあお酒持って来ないと…」
 ぱっと着物を羽織るだけ羽織って、幸村は慌てた様に狂を見上げて立ち上がろうとする。
「…俺が戻るまでに用意しとけ」
「分かった。ごめんねι」
 パタパタと急いで着物を着ている幸村を横目で見ながら、狂は部屋から出て行った。
 廊下に出ると二人の小姓がいて、情事前に幸村が名前を呼んだ二人だった。
 恐らくずっとそこにいたのだろうから、幸村の喘ぎや、自分達の話し声も、もしかしたら聞こえていたかもしれない。
 しかし、狂にとってはそんな事はどうでも良かった。
 特に口止めする必要がある様な事を話していたわけではないし、それを口外された所で、別段何とも思わない。
「烙葉ー、梨蓮ー」
 狂はその二人を横目で見ると、幸村が二人を呼ぶ声を聞きながら、厠の方へ廊下を歩いて行った。


「おかえりなさい」
 狂が戻ると、幸村はにっこりと笑って狂を待っていた。
 再び綺麗に着られた着物は、正しく着慣れています状態で、用意された膳の上には酒とつまみが用意されている。
「狂さんこっち」
 幸村が膳の置かれている横に付き、狂はそれに遵って膳の前に座る。
「ねぇ、狂さん。僕もうちょっと狂さんに笑って欲しいなァ…なんて…」
「誰が笑うか」
「あ、酷い〜」
 幸村は笑い、狂は相変わらず少しも笑おうとしない。
 その事に対して何か不満があるとかそういうわけでは無いが、多少、笑う所を見て見たいという、幸村のただの好奇心だ。狂をよく知る人間ならば、恐ろしくてそんな事は面と向かって言えないだろうが、幸村にとっては軽いものだった。
 そんなやり取りを織り交ぜながら、幸村と狂の会話は、別段暗いものでもなく、それなりに盛り上る。
 狂にとっては何が楽しいと言うわけでも無いが、実際、幸村相手だと話しやすいという節があった。
 幸村の持つ情報や知識は留まる所を知らず、話をしている相手を楽しませる。
 色子としてそれは当たり前なのだが、しかし幸村は他の花魁とは何処か違っていた。
 『楽しい』という感情がどんなものかよく分からないが、恐らくこんなキモチの時も多少は含むのだろう。
 そんな夜が、静かに過ぎて行った・・・。


「幸村、ちょっと良いか」
「あ、はい」
 日が闇を細い光で打ち破った朝方、たらふく酒を呑んだ狂が帰り、座敷の後片付けの指示をしていた幸村に、後ろから突然声をかけられた。
 低く心地よく響く様なその声は、確かめなくとも誰か分かる。聞き慣れた声。
「楼主」
 幸村が呼ばれたのは、この桜楼閣の若き主人だった。
 優男風のその男は、開いた障子の向こうで幸村に手招きする。
 その様子に、幸村は着物を汚さぬ様に楼主に近寄り、小姓は軽く楼主に礼を取ってから、再び後始末を始めた。
「何か?」
「終わったら上へ」
「分かりました」
 短い、それだけの会話で用は終わった。
 楼閣にいる時は、色子と楼主の会話は極力短い。
 幸村は大抵の予想をつけると、楼主が去るのを待たずに再び後始末の指示に戻った。
 広いこの様な座敷では、桜楼閣の場合、色子が小姓に指示を出して後始末をするという方法が取られている。
 それは、接待の時に何処に何があるか、色子が把握しておかなければならない為、色々な物が散乱していた場合小姓が勝手に片付けてしまうと何処にその物あるのか、必要な時に分からなくなってしまうという理由が挙げられる。
 しかし、色子が小姓と共に後始末をすると言う事は、堅く禁じられている。
 万が一、後始末の際に怪我をしたとなると、『商売』もしにくくなるからだ。
 一つの小さな傷でも、それが治るまでの間は仕事が出来ないという掟が作られている程。
 もしこの店が『物』の売買をしているのだとしたら、傷物を出すわけにはいかない、それと同じ理由だ。
 そうして、その他にも禁止事項が、日常にさほど影響しない程度にこの桜楼閣には設けられていた。
 残り少なくなった片付け物を見た幸村は、小姓達に指示を出すと、その座敷を後にした。


「楼主、何か?」
「何かじゃないだろう。何で身請けの話が出たのを俺に伝えなかった」
 幸村が楼主の元へ行くと、如何にも『待っていた』という風貌で幸村にそう言い放った。
 何処か、楼主のその表情は怒っている様にも見えなくは無い。
「まだ少し考えたかったから。その話は、自分で受けるかどうか決めてから楼主に伝える筈でしょ?」
「それはそうだが…そうか。お前もそろそろ身請けを考えるか…」
「葎(りつ)、そうじゃないよ。ただ僕は…」
 楼主が苦笑したのを見て、慌てた様に幸村は言う。
 一対一の時は、楼主と幸村の間には上下関係が無くなる。
 本来、色子と楼主は一対一でも上下関係があり、砕けた口調は許されても名を呼び捨てにする事だけは許されないが、この二人の場合、出会いが出会いだっただけに、特にそれを楼主は咎めたりはしない。
「悪い悪い、少し虐めすぎたか?こっちにおいで」
 再び苦笑を零し、楼主は幸村を自分の元まで招く。
「懐かしいな。お前がここに来てからもう随分経つ」
「そうだね」
 幸村は楼主の元へ寄ると、横に座り、楼主の後ろにある窓の外の広い、何処までも広がる空を見上げた。
「僕が家から飛び出してから、もう結構経つね」
 幸村は笑い、楼主の横顔を眺める。
 振り返った楼主の視線の先には、先刻自分も見ていた空。
「皆、どうしてるだろ…」
 楼主の隣で、楼主に聞こえるか聞こえない位の声でポツリと呟く。
 もしかしたら、もう皆は自分の事を忘れているかもしれない。
 そんな、儚い思いが脳裡を過った。
 あれは自分が屋敷を飛び出した日の事。
 今となっては、それはもう遠い遠い日の、誰かから聞いた『お伽話』の様に感じる様になっていた・・・


―――――・・・・・・・・…


「幸村様…」
「…はぁ、はぁ…。良いよ、才蔵、このままで。…行って。見られるとまずいから」
「しかし」
「良いから」
「…はい」
 そっと音を立てない様に寝室から出て行く才蔵を布団の中で見送りながら、幸村は動かない体を無理矢理仰向けにさせた。
 さほど時間は経っていないから、まだ鮮明に、挿入られていた感覚が残っている。
「・・・ンっ!…はぁ、腰、ダルイなぁ」
 才蔵によって放たれた白濁が、緩んだ幸村の秘部からドロリと零れた。
 情事の汗と、自分が放った欲とで、布団や髪が体に張り付いて気持ち悪い。
 それでも、それ以上に気持ち悪い自分の内にある自己嫌悪。
「・・・っ」
 思い出し、涙を流す日が、一体どれ位続いただろう。
 そこにあるのは喪失感と嫌悪と憎悪。
 憎しみ、悲しみ、怒り、そんな言葉で収まる様な感情じゃない。
 思い出し、涙を流し続けて、普段の自分に戻れない様になる位なら、この身を明け渡して慰み者にでもなった方がマシだった。
否。今の自分は、慰み者以下かもしれない。
 自分が作り出した結果なのに、こんなに近くに居るのに応えられなかったその痛みと苦しみ。
 もう今は遠い、離れた相手への痛み。
「幸村様…」
「…ああ、甚八か。何?」
「そのままでは風邪をひかれます。体をお拭きしますから、起きられますか?」
 片手に湯とタオルの入った桶を持って、そっと寝室に入ってきたのは甚八だった。
 恐らく、才蔵が言ったのだろう。自分では幸村は嫌がるだろう、と。
 タオルを湯から上げて緩く絞り、幸村の片腕を持ち上げて優しくそれを拭き始めた。
 しかし、それは幸村によって阻まれてしまった。幸村はその甚八の手を振り解いて首に腕を回し、甚八の唇に自分の唇を押し当てた。
 舌を伸ばして、甚八に求める。
「甚八…」
「何か?」
 しかし、幸村にキスをされても、甚八は冷静だった。
 何も着ていないせいで、もう冷たくなり始めてしまっている幸村の体を、そっと自分から離そうとする。
「ねぇ、抱いてよ」
「…幸村様、そういうお戯れはお止め下さい。そうでなくとも先刻は才蔵と…」
「良いから」
 何か気を紛らわす事が出来る事をしていないと、また可笑しくなりそうだった。
 自分で仕掛けた事なのに、思い出して涙を流したくなんて無い。
「お体を壊されます」
「良いよ。ねぇ、壊してくれる?僕が嫌って言っても犯してよ。じゃないと可笑しくなりそう」
「もう可笑しくなってしまわれています。どうしてこんな自分を傷付ける様な事を…」
「…そうかもね。うん、可笑しくなっちゃってるのかも。でもね、良いんだよ。ねぇ、皆で僕をもっと可笑しくしてよ。僕が何も考えられない人形みたいになるまで」
 にっこりと笑う幸村の目は、まるで死人の様なそれだ。
 生きてはいる。
 鼓動を感じる。
 低いが、体温もちゃんとある。
 でも、心が病んで、『死んで』しまっている。
『狂ってる。』
 そう、甚八は思った。
 幸村は『あれ以来』狂ってしまったと。
 ただ呆然と幸村と唇を重ねる。
 もう、退き返し様が無い。
 幸村は完全に可笑しくなってしまった。

「んっ、甚八、甚八ぃ…あっ、ぁ、やぁ…ンんッ」
 先刻まで才蔵を銜え込んでいたソコは、今は甚八を銜えて、その大きさに無意識の内にヒクヒクと内を痙攣させている。
 まだ内に残っている才蔵の白濁を掻き出す様に奥へ奥へと貫かれてはギリギリまで抜かれ、幸村は必死に甚八に抱きついてその快楽を貪った。
 情事の間だけ、快楽で嫌悪感を忘れられる。
「幸村様…」
 涙を流している幸村に、甚八は動きを止めて涙を拭ってやる。
「良い…からぁ、もっとシテ、甚八」
 肩で荒く息をして、幸村は自らキスをねだった。
 貪るように舌を絡め、挑発的に甚八に抱きつき、甚八の髪を掻き乱すようにきつく抱きつく。
 息をつく暇も無い位、幸村はその熱いキスを何度もねだる。
 キスの合間に甘い吐息を漏らしながら、濡れた唇は官能的に甚八の名を呼ぶ。
 誘う紅い舌。
 淫らに揺らめく細腰。
 眦に涙を浮かべて濡れた瞳。
 幸村の存在全てが、甚八を淫らに挑発している。
 内を無意識に締め付け、甚八はそれに眉を潜めた。
 キスをしたまま、甚八は幸村をグッと突き上げる。
「んっ…ふ、ふぁ…ひぁンっ…ィイ・・キモチい…。も…ダメェっ・・・イク…ッ!」
 汗ばんだその頬や鎖骨にキスを落としながら、締め付けられた甚八は幸村の中に欲をブチ撒けた。

「甚八、ここにいて…?」
 甚八に体をすっかり綺麗に拭いてもらった幸村は、甚八に全く力の入らない体を凭れ掛けさせて、そっと甚八の袖の裾を摘んでそう言った。
 一人だと、また泣いてしまいそうだから…。
「傍にいます、ずっと。だから、少しは寝て下さい」
 甚八は、自分に凭れ掛って来る細くなった幸村の体にそっと布団をかけてやって、その布団の上から優しく抱きしめてやる。
 もう随分と、幸村がゆっくりと眠っていないのを、甚八は知っていた。
 そして、ろくに食事も採らず、食べたと安堵していたら、後でそれを吐いてしまっていた事も。
 幸村の体重は、着実に減ってしまっている。
 このままでは、近い内に倒れてしまうだろう。
「おやすみ…」
「おやすみなさい」
 人の温もりがある安心感と疲れが一気に来たのか、幸村はすぐに寝入ってしまった・・・


「ん…」
「お目覚めですか?」
「甚…八…」
「はい」
「おはよ…」
「おはようございます」
 微笑を向けられ、甚八はその笑みに頬を綻ばせながら挨拶を返した。
 昨夜、幸村が寝入ってから、甚八は幸村の眠った様子を見ながら、自分もそこで浅い睡眠を取った。
 幸村は軽すぎて、その軽さが甚八にとっては苦だった。
 以前の様な重さが今の幸村にあったのなら、反対に苦にならなかったのに。
「お体の方、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。心配性だね、甚八は。昨日はごめんね、重かったでしょ」
 くすっ、と笑って幸村は言い、未だに甚八に凭れかかっている事に気付き体を動かそうとした。しかし―――
「痛…ッ」
「大丈夫ですか?」
 立ち上がろうとしてよろめく幸村を、甚八は咄嗟に抱きしめる。
 幸村の脚の付根や、秘部、腰、背中、至る所が軋む様に悲鳴を上げた。
(無茶し過ぎたかな・・・)
「ん、大丈夫。ごめん」
 そう言って、幸村は痛む体を無理矢理立ち上がらせ、障子を開け放った。
 外は清々しい位の快晴で、日光が屋敷の内庭に下りた朝露をキラキラと光らせている。
「それでは、今朝食を持ってきます。着替え、お一人で出来ますか?」
「うん」
「では…」
 開け放たれた所とは反対の廊下へ出て、甚八は幸村の朝食を取りに行く。
 ここ最近は、幸村は自室で食事を摂っている。
 本当は全員が揃って食事を摂りたい所だが、幸村がそれを最近は嫌がるので仕方が無い。
『一つ空いた』席を、見たく無い。
 それが、幸村の本心だった。


「小助、幸村様のお食事を用意してくれ」
「あら、甚八おはよう。昨日は幸村様の所に居たの?」
 トントンとリズム良く包丁を振るっていた小助に声を掛けると、小助は一度手を止めて振り返り、そう言った。
 ここ最近、誰か一人いないとなると、大抵は幸村の所に居る。
 そして、そこで何が行われているかも、小助は知っていた。
 ただ、自分は夜、その場所へ呼ばれた事は無い。
 自分には果たせない役目であって、自分から何かを言うことでも無い。
 幸村がそれを望むのなら、仕方が無い。
 自分は、幸村の為に他の物とは違う、栄養のあり過ぎると思う位の料理を作る事を精一杯やる事と、幸村の影として役目を果たすことしか出来ない。
「…幸村様、お体は大丈夫かしら」
 再びトントンとリズム良く包丁を動かし始めて、小助は後で壁に凭れて立っている甚八にそう問う。
「さぁな。…強がってはいるが恐らくかなりキテる筈だ。体重が軽すぎる」
「昨日もお食事、残していらっしゃったものね」
「やっぱり、アイツを出すべきじゃなかったんだ」
「甚八、このままだと幸村様が…」
「ああ、分かってる。…どうするべきか…」
「どうにか幸村様を説得する事は出来ないかしら」
「幸村様さえ許して下されば…」
 朝から途方に暮れた顔をして、小助と甚八の会話はそこで止った。
 戻ってこれば、幸村は以前の様に戻るかもしれない。
 でも、反対に完全に壊れてしまう可能性もある。
 自分が汚してしまう。
 そう、思いこんでしまっている幸村。

「はい、甚八。こっちが幸村様の分。こっちがあなたの分だけど…あなたのも持って行く?」
「いや、いい」
「そう。幸村様、食べて下さると良いのだけど…」
「そうだな」
 苦笑を零しながら、大きな膳一杯に並べられた食事を持って、甚八幸村の部屋へと戻って行った。


「幸村様、お食事です」
「ああ、有難う。ごめんね、迷惑かけて」
 開け放った障子に背を預け、何も考えずに外を眺めていた幸村が、後から声をかけて来た甚八に意識を移す。
「いえ、それより、ちゃんと食べて下さい」
「…うん、そうだね」
 幸村の笑顔が、薄くなった。
 ここ最近、胃が食べ物を受け付けない。
 食べ物を見た瞬間に襲われる嘔吐感。
「綺麗ですね、外」
 目の端に映った庭園を見て、甚八は優しく笑う。
 食事を開け放った障子の近くで、朝日が直接当たらない様な位置に膳を置く。
 座る様に幸村に促すと、幸村はそこにゆっくりと腰を下ろした。
「いただきます」
 箸を持って、畑で採れたのだろう野菜に手を付け、口に運ぼうととする。
 しかし、そこで動きは止った。
 その箸に持った感触だけで、嘔吐感が込み上げて来たのだ。
(ヤバ…吐きそう…)
「幸村様?」
「え、ああ、何でも無いよ」
 作り笑いを浮かべ、どうにか箸を口元に持っていって、押し込む。
 嘔吐感が更に込み上げ、胃液が食道を逆流してくる。
 殆ど噛まずにどうにかそれを野菜で止め様と、無理矢理胃へと流し込んだ。
 しかし、やはりそれもそこまでだった。
「ぐッ…!」
 反発するかの様に更に胃液は一気に逆流し、眩暈がする位の嘔吐感は一気に全身に回った。
 幸村は乱暴に箸を膳に置き、ガシャンッ!と膳の上の陶器がぶつかる音に気付くことなく、口元を強く押さえて廊下を出て外の縁側の所で、胃に押し込んだ野菜を外へ出してしまった。
「げほっ…ゲホッ…ッはぁ、はぁ、はぁ…」
 今食べた野菜以外、何も胃に入っていないので他に食物が出る筈も無く、胃液と唾液が地面に落ちる。
「幸村様!!」
 障子に片手をつき、外に乗り出して膝を折っている幸村に、甚八は背を擦ってやる。
 肩で大きく息を吸っている幸村。
 その顔は真っ青で、痩せた体が痛々しい。
「大丈夫ですか・・・?」
「だいじょ・・ぶ、だよ」
 軽く目を閉じて息を吐きながらぺたん、とその場に座り込む。
 眩暈と嘔吐感が治まらない。
 ここ最近頻繁に起こる眩暈は栄養失調のせいだと分かっているのに、その栄養を取る事が出来ない。
「小助!水持って来い!!」
 台所の方へ声を張り上げると、慌てた様な足音が聞こえてきた。
「どうしたの!?」
 水をコップに入れて持ってきた小助だが、幸村の姿を確認して急いで水を渡す。
 両手でコップを持たせると、幸村はそれをゆっくりと口に運んだ。
「ごめんね、小助。折角作ってもらったのに…」
 苦笑を零しながら幸村は小助に向って言う。
「そんなこと…。幸村様、少し横になって下さい。お顔の色が悪過ぎます」
 幸いまだ布団は敷いてあって、甚八が幸村を抱き上げてそこまで連れて行き、布団の上に下ろす。
 抱いて更に分かる、幸村の軽さ。
 もう、限界かもしれない。
 このままほかっておけば、幸村の死は確実に近付く。
 甚八は横向きに寝る幸村に布団をかけてやって、小助がその背をまた擦ってやる。
(頭クラクラする…。もうダメかな…)
 自嘲気味に笑うが、幸村はその現実味のある死の感触に表情を無くした。
 そしてそのまま目を閉じると、小助の背を擦る手の暖かさから強い睡魔に襲われ、眩暈から逃げる様に深い深い眠りへと落ちていった。
「小助、ちょっと良いか」
「何?」
 幸村が眠ったのを確認した甚八が、小助を廊下に呼び出した。
 まだ朝日は眩しくて、そっと障子を閉める。
「アイツを呼び戻してくる」
「そんなっ!ダメよ、幸村様がなさった事に背くなんて…」
「仕方ないだろう。幸村様があんな状態の今、原因を連れてくるしかない」
 奥歯を噛み締め、甚八は言う。
『原因』が何処にいるのかは知っていた。
「それが一番良いだろうな」
「才蔵・・」
 突然甚八の後からかけられた声に振り返ると、そこには才蔵がいた。
 話は聞こえていた様で、才蔵も甚八の提案に同意している。
「連れ戻そう。このままでは幸村様が…」
「才蔵まで…」
「仕方ないだろう。小助、お前が幸村様の命に背きたくないのは分かる。でもな、今はそんな事言ってる場合じゃねぇんだ」
「小助、分かるだろう?確かに幸村様が強く希望されて命を受けたのはお前だが、他に手は無いんだ。もしそれでもダメだと言うのなら、俺達の独断だと言ってくれても良い」
「・・・」
「小助、分かってくれ」
「・・・良いわ。でも、私も一緒に行く」
 小助は胸の前でキツク握った手に更に力を込め、二人に視線を合わせてきっぱりと言った。
 その目は絶対に否と言わせない力強いもので、二人は分かったと言うしかなかった。
「今日の午後、アイツが『家』にいる時間対を見計らって」
「ああ」
 三人は『独断』で、町へ行くことと待ち合わせ場所を決め、それぞれ散って行った。
 しかし、そこでは誰も思ってはいなかった。
 まさか、幸村がそれを聞いていたなんて―――

「皆バカだなぁ…僕の心配なんてしなくても良いのに」
 布団を頭まで被った幸村は、自嘲気味に笑い涙を流した。
 まさか出て行かせた者を、自分のせいで連れ戻そうとするなんて、思わなかったから。
「戻ってくるんじゃ、僕もうここにはいられないじゃないか」
 涙を拭って幸村は布団から出ると、箪笥の中から紅い蓮華の刺繍の入った、基本地が薄青い着物を取り出して適当な帯を引っ張り出してそれを着始めた。


 丁度太陽が頭の真上に来た頃、廊下を三人の十勇士が幸村の部屋へ向った。
 無論、連れ戻しに行く為に町へ下りようと言うのだが、主には買出しへ行くと言うつもりで、幸村に報告をしに行くのだ。
「幸村様、失礼します」
 軽く頭を下げ、小助が障子をすっと開ける。
「幸村様、これから・・・」
 視線を上げ、幸村の表情伺いをしようとした小助は、言葉が止った。
 障子を開け、幸村に報告をしようとしたのは小助のみで、甚八と才蔵は少し離れた廊下の先にいたのだが、小助の言葉が止ったのに気付き、近寄る。
 小助の目が、少し離れた所の何かを『読んで』いる。
「小助?」
「幸村様…ッ!」
 小助が慌てた様に顔色を悪くしてダッ、と廊下を玄関の方へと駆ける。
「どうしたんだ!?」
 途中で、小助を待っていた甚八と才蔵にぶつかり、小助は二人に声を荒げて叫んだ。
「幸村様が…ッ!幸村様が何処かへ・・・」
 小助が何を言っているのか分からず、二人は幸村の部屋を覗く。
 すると、奥の柱に一枚の紙が貼られていた。
『皆ごめんね。
   少し頭を冷しに行ってきます。』
 そう、達筆な字が短く綴られている。
 紛れも無く、それは幸村の字だ。
「幸村…様」
 ヤバイと言う言葉だけが、甚八の頭を埋めつくした。
 脇差しがなくなっている。
 時折り狂った様に錯乱状態に陥って、目を離したスキに自分に刀を向けようとする時があった今の幸村の精神状態では、何をしでかすか分からない。
「甚八、放心してる場合じゃない!急いで後を追いかけるんだ!!」
「あ…ああ。そうだな。小助!皆で手分けして探そう」
「はいっ!」
 三人は慌ただしく外へと駆け出した。


「ねぇちゃん、綺麗だねぇ。安くしとくよ!一つどうだい」
 十勇士が屋敷を飛び出した頃、幸村は既に町へ下りていた。
 幸村の顔で女と勘違いする人が後を絶たず、市場へとやってきていた幸村に、声をかける者も後を絶たなかった。
「ごめんね、今それ所じゃないんだ。追われててね」
 あはは、と笑って、幸村はそれをかわす。
「何だい、振った男にでも追いかけられてるってか。まぁそんだけ綺麗じゃあ仕方ねぇわなぁ!」
 盛大に笑いながら、手に大きな魚を持った、太り気味のおやじが幸村にそう囃し立てる。
「まぁそんな所。また今度ね」
「またいつでも来な!ねぇちゃんなら安くしとくからよ」
 大きな声でそう言うと、おやじは幸村を見送った。

「すいません」
「はい?」
 掛けられる声を適当にかわして市場を通り抜けて河川沿いに出ると、そこには市場とは正反対の静けさがあった。
 市場にいたせいで、多少の騒ぎでは何にも感じなくなっているのかもしれないが、兎に角、幸村は、丁度茶屋で座って団子を頬張っている男に声をかけた。
「陰間寵ってどっちですか?」
「何だ、ネェちゃん、陰間へ行くのか?あそこは女は入れねぇぞ?」
「あ、ご心配なく。僕男なんで」
「へぇ、あんた男か。…にしては綺麗な顔だなぁ」
 まだ若くは見えるが恐らく30代前半位だろう男は、幸村を驚いた様にまじまじと見た。
 何処か遊んでいる風体な男は、親しみやすさを感じ、上から下まで見られているのに嫌な感じはしない。
 しかも、男という感じはするのだが、どこか整った顔立ちで、スッキリとした嫌味の無い顔だった。
 髪の色素は抜かれ、それでも黒い眼は爛々と輝いて、獲物を捕らえる時の獣の様な目になっても、きっとその美貌は保たれるのだろうと印象付けた。
「有難うv それで、どっち?」
「え、ああ、あっちだ」
 今幸村が来た方向とは逆の、彼方に見える紅い塔の、天辺が辛うじて見える方を指差した。
 その手前には森があって、その森の丁度中央には大きく道が開け、行き交う人々が楽しそうに笑っている。
 しかし、その行き交う人の中に女性の姿は無い。
「有難う。じゃあ」
「あ、ちょっと待てよ。…ウリにでも行く気か?」
「ん〜、まぁ、そんな所」
 考える素振りを見せながら、しかし幸村は特には何も考えずにそう応えた。
「へぇ。ンじゃあちょっと俺と話でもしてかないか?陰間寵の事、色々教えてやるよ。その様子だと、陰間寵なんて初めてなんだろ?茶くらい奢ってやるし」
 初対面にも関わらず、人好きのしそうな笑顔を浮かべ、嫌な感じのしないその男は、自分が座っていた所の隣をポンポンと叩いた。どうやらそこへ座れという事らしい。
「でも・・」
「今行ったって今日は何処もまだ開いてねぇし、何なら時間になったら俺があそこまで連れてってやるからさ」
「…じゃあ」
 幸村は考え、その男の横へ座った。
 もし、いざとなって犯されたりされそうになっても、別に何とも思わない。
 寧ろ、これからそういう事をされに行くのだから、別段後悔もしないだろう。
 この男が何処まで陰間寵の事を知っているのかは別として、恐らくは何かしらの知識を幸村に与えてくれるのは確かだ。
「おっちゃん、抹茶と団子もう一つ!  で、何であんなトコ行こうと思ったんだ?」
「家にいられなくなってね。色々あったし、もうそろそろどうなっても良いかなって思って」
「あんた自虐的だな。…にしても、その色々ってのは金の問題じゃ無さそうだな」
「何で分かるの?」
 驚いた様に、幸村はその男を見る。
 すると、幸村の格好を一瞥して、団子を再び頬張った。
「着てる着物も帯も、全部一級品だろ。そんなん着てる位だから、金じゃねぇんだろうなぁって思っただけだ。それに、動作が落ち着いてる。あんた、良いトコの出の坊っちゃんか何かか?」
(この男・・・)
 ただの遊び人では無さそうだ。
 観察力や、洞察力はずば抜けている。
 なるべく目立たない様な、安物でも有る薄青の着物を選んだつもりだったが、どうもそれがこの男の前では裏目に出たらしい。
「まぁ、そんな所かな。で、陰間寵てどんな所?」
 幸村はにっこりと笑ってそう話を切り替えた。
 自分の事をこれ以上詮索されると、その内身元がバレそうだった。


「―――てなとこだな。陰間寵っつっても、結局は色町の男版なだけだし」
 初めよりかなり砕けた男は、幸村に色々な知識を与えた。
 それは幸村が思っていた以上に、男の知識は豊富だった。
 普通に聞く話の中には色々と裏があるらしく、裏の話までしてくれたこの男の話す事はとても興味深く、楽しかった。
「さて、そろそろ行くか」
「え?」
「行くんだろ?陰間寵」
 すっかり男の話に没頭していた幸村は、時間が経過するのも忘れていた様だ。
 気付けば、まだ高かった日は、もう落ちて回りは闇へ包まれようとしている。
 店にはいつの間にか灯が灯されていた為、特に暗さは感じなかったのだろう。
「本当に連れてってくれるの?」
「ああ、どうせ俺もあっちに様があるし」
「・・・男を抱きに行くの?」
 立ち上がって伸びをする男に、幸村は見上げて問う。
「違う違う。仕事だ仕事。あ〜、面倒臭ェ。おやじ、代金ここに置いてくぜぇ」
「え?仕事って、わっ・・」
 店の厨房にいる店主に声をかけ、幸村の腕を引っ張って男は歩き出した。
 数歩歩いた所で、案外強くつかまれた腕に、多少の痛みが走った。
「腕、痛いんだけど」
「ああ、悪い」
「ねぇ、お仕事って、陰間で働いてるの?」
「まぁな。あ、働いてるっつっても、色子じゃねぇぞ」
「え、じゃあ何してるの?」
 裏方で働いている…というわけでも無さそうなこの男が、一体陰間でどんな仕事をしているのかなんて、幸村には想像がつかなかった。
 森の所々に一定間隔で灯されている灯篭が、暗い道をやけに賑やかに照らし出している。
 その灯に映し出された男の顔が不敵に笑い、さぁな、とだけ呟いた。
「ほら、見えた。寵門だ」
 男に話を切り替えられ、促された方向を見れば、高くそびえる大きな門。
 その大きな門には細かな細工の天神門が描かれ、それに群がる様に、大小様々な竜や天女が美しく彫られている。
 それを鮮やかに映し出している沢山の堤燈達。
 どうやって吊るされているのかは分からないが、沢山の淡い光が客を招いて輝いていた。
「綺麗…」
「だろ。さて、逸れるなよ。こっから先は人が多いからな」
 陰間寵の何処へ行くとも決めていなかった幸村は、言われるままにその門を潜り、男について行く事にした。

 男は、至る所で声をかけられていた。
 しかし呼ばれるその名前はどれもバラバラで、一定の名前を呼ばれることは無い。
「ねぇ、名前、何て言うの?」
「…葎(りつ)だ」
「本名?」
「ああ。お前は?」
「幸村」
「はは、名字か名前か分かんねぇ名前だな」
「うるさいなぁ…」
 ぷぅ、と頬を膨らませて言う幸村に、葎は更に笑う。
「ねぇ、何処行くの?」
 葎については行くものの、先刻からどの陰間をも通り過ぎて行く。
 葎の足取りは、ここの地理を知らない幸村には先が見えない。
 結構歩いたつもりだが、この町は相当広いらしい。
 まだ四方に囲まれている門の端は遠い。
「もう少し先だ。ほら、見えるだろ?あの紅い塔」
 指された先には、立ち並ぶ陰間の間に垣間見える、高く大きな紅い塔。
 それは恐らく、茶屋から見えた塔だろう。
「あそこ?」
「ああ」
 葎の足取りは段々と軽くなり、人並を掻き分けてその塔の前まで辿り着く頃には、幸村も回りの雰囲気に完全に慣れていた。
 そして突然開けた場所に出たと思った途端、目の前には横に広い大きな紅い橋が掛っていた。
「綺麗・・・」
 幸村は考えるより先にそう呟いていた。
 この、他を見れば絢爛豪華な陰間と違って、そこは落ち着いた雰囲気なのだが、朱に映える細かな細工。
 品良く見えるそれらが、色町だと言う事を忘れさせた。
「あ、楼主!おかえりなさい」
「何処行ってらしたんですか。神楽さんが探してましたよ?」
「そうそう。小言が多いと言うか、楼主がいないと仕事が出来ないって」
 紅い橋を渡ろうとした時、恐らくこの陰間の色子だろう人達が葎と幸村の周りに集ってきた。
 どの色子も綺麗な着物を幾重にも重ね、胸元に大きな結びを作っている。
 そしてその着物にも負けるとも劣らない、本当に男かと疑いたくなる様な綺麗な顔立ちをした若者達。
 しかし、それをじっと見ている余裕など、幸村には無かった。
 色子達の口から出た、不思議な単語。
「…楼主!?」
 幸村は、葎に失礼ながらも指を指して叫ぶ様に言葉を発してしまった。
「ちょ、え?葎って…まさかここの…」
「あっはっは、色子ではないだろ?俺、ここの3代目なんだ」
 わりぃ、と片手を挙げて、葎は悪びれも無く言い放った。
「うっそ…」
「ホント」
 キッパリと幸村の言葉に返答を返した葎に対して、はぁ、と力なく肺に入っていた全ての息を吐き出した幸村は疲れた様にそこに座り込んだ。
 まさか、こんな大きな陰間の主人だったとは…。
 どうりで遊び人風な、仕事をしている感じがしない筈だ。
「あれ、幸村、どーした?」
「なぁ楼主、誰?これ」
「何か綺麗な人だねぇ」
 アンタ達の方が綺麗だよ。幸村はそう突っ込みたくなったが、この色子達は興味津々といった風で客を無視して幸村を見ていたので、突っ込む気も失せた。
 何処か、自分はここでは浮いている気がした。
「はは、こいつ幸村ってんだ。今日からウチで働くから」
「はぁ…は!?」
 突拍子も無い言葉に、幸村は流されそうになったが、しかし、そこで流すのを止めて葎を振り返った。いつの間にか幸村の後へ下がっていた葎は、不思議そうな目で幸村を見る。
「あれ、違った?」
「え、雇ってくれるの?」
「だから連れてきたんだろ。てか、俺が興味あったんだけど」
「へぇ、めっずらしい。楼主が人に興味持つなんて」
「何、そんなにテク持ちなの?」
「フェラ上手とか?」
 笑って言う葎に、色子は下品な言葉を発しながら囃し立てる。
 しかし、そんな事は幸村には関係ない。
 十勇士に見付からなければ、何処でも良い。
 幸村が陰間寵を選んだのには理由があった。
 幸村を探す為に色町には行く十勇士だが、まさか、色町好きな幸村が陰間にいるなどと考えないだろうと踏んだからだ。
「まぁ良いや。俺、李蝶な」
「僕不知火。宜しくね」
 にっこりと笑う、不知火と李蝶に、幸村は「はぁ」と生返事しか返せなかった。
 綺麗過ぎる。
 幸村はそう思った。
 化粧をしているわけでもないその顔は、女顔負けの可憐さだ。
 肌理細かい肌に、ピンクの口元。大きな瞳の者もいれば、色香を漂わせ、誘うような瞳をした者もいる。
 多種多様な色子達なのに、どこがとも言えない位、皆顔のパーツが一つ一つ整っている。
 着物を着ていても分かる、しなやかな体のラインに物腰豊かな動作。
 それは彫刻が動いている様にも見えて、完璧な美だ。違う言い方をすれば、恐ろしいという域に入るかもしれない。
 しかしその美を和らげる、少し大雑把な口調が、近付き難いという印象を完全に壊していた。
「あ、丁度良い。不知火、李蝶、幸村を上まで連れてってくれ。俺神楽んトコ行って着替えてから行くから」
「「はーい」」
 二人はそう言うと、幸村に手を貸して立ち上がらせ、橋を渡って楼閣へと向う。
「「ようこそ、桜楼閣へ」」
 それが、幸村がこの桜楼閣へ踏み出した第一歩だった。


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